それはゴミではない。小波にとっては、まだ値段がついていないだけだった。
※この物語は「荻原家の愉快な住人たち。」第1話から続く、もうひとつの物語です。
先に本編を読むと、より楽しめます。
これは、朝の珈琲から始まった騒がしい一日の、もうひとつの続きである。
プロローグ
朝のスタジオ・キッチンには、ようやく落ち着いた空気が戻っていた。
カップには珈琲。
皿には、黄金色のフレンチトースト。
石臼も、謎の装置も、ひとまず片付けられた。
焼きたての甘い香りと、珈琲のやわらかな湯気。
荻原家の一日は、少し騒がしく始まったけれど、最後はちゃんと食卓にたどり着いた。
全員:「いただきまーーす!!」
……と、ここで本編はきれいに終わった。
だが。
荻原家には、まだ終わっていない人が一人いた。
荻原CEO:「本編から少しだけ分岐する前に、大事な確認です」
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予知、占い、霊感、物や空気の声、自然や大地の記憶その他の非科学的・超常的な表現は、登場人物の設定および物語上の演出です。正確性、再現性または効果を示すものではありません。
作中の石臼、機械、器具、食品、火気その他を用いる行為や、非科学的な手順、特殊な行動は創作上の演出を含みます。安全性を保証するものではないため、現実に模倣、実行または再現しないでください。
小波の『マネー・シンギュラリティ』登場人物紹介

小波
見えない価値を見つけてしまう、このシリーズの主役。
失敗、余りもの、粉、沈黙、偶然にまで値段をつけようとする価値変換の暴走役。
でも、荻原CEOのさりげない優しさには少し弱い。

荻原CEO
小波の暴走を現実に戻す、冷静なツッコミ役。
「それは売り物ではなく朝ごはんです」と、やわらかく止める。
最後は食卓へ戻してくれる人。

理橋
小波の価値変換を、真顔で数値化する研究者タイプ。
希少性係数、再現困難性、概念残留値など、もっともらしい理屈で小波を後押しする。

天然寺
失敗や余りものに、自然や大地の意味を足すナチュラリスト。
焦げには火の記憶、粉には大地の圧。
小波のプレミアム化に、自然の物語を添える人。

日和
欠点や失敗を、美しく言い換える感性派。
粉も焦げも形崩れも、日和にかかれば少し詩的になる。
小波がすぐに商品説明へ使いたがる言葉を生み出す人。

占部
モノ、空気、場所の気配まで聞こえてしまう不思議な実況役。
粉や紙や空気の声を伝え、小波の価値変換劇に妙な説得力を足していく。
荻原CEO:「ここから先は、本編ではカットされた小波さんの分岐ルートです」
本編ではカットされた、小波のビジネス暴走ルート
【分岐点:本編エピローグ・粉になった料金表より】
フレンチトーストを食べる直前。
荻原CEOは、さっき石臼に巻き込まれて粉になったものを、そっと片付けようとしていた。
珈琲豆の粉。
理橋の説明書の端。
小波の料金表。
それらが混ざり合い、なんとも言えない茶色い粉になっている。
飲めない。
使えない。
残す理由もない。
荻原CEOは、小さな紙袋にそれを入れようとした。
その瞬間だった。
小波:「ねぇ、荻原」
荻原CEOの手が止まった。
荻原CEO:「……食べましょう。今は朝ごはんの時間です」
小波:「それ、捨てる気?」
荻原CEO:「飲めないので」
小波:「違うわね」
小波は、粉を見つめていた。
普通の人なら、片付けるものにしか見えない。
けれど小波の目には、もう違うものに見えている。
売れ残りではない。
失敗でもない。
ましてやゴミでもない。
まだ値段がついていないだけの、何か。
小波は、にやりと笑った。
小波:「これは、価値よ」
荻原CEO:「違います。これは、紙と珈琲が混ざった粉です」
小波:「だから価値なのよ」
荻原CEO:「その“だから”が一番怖いんです」
小波は、粉の入った紙袋をそっと持ち上げた。
まるで希少な鉱石でも見つけたような顔だった。
小波:「見て。珈琲豆、説明書、料金表。この三つが、偶然にも一つの粉になった」
荻原CEO:「事故です」
小波:「偶然性。限定性。再現不可能性」
荻原CEO:「事故の別名を増やさないでください」
小波:「商品名は……『モーニング・アーカイブ・パウダー』」
荻原CEO:「急におしゃれにしないで」
小波:「朝の記憶を閉じ込めた、世界にひとつだけの粉」
荻原CEO:「閉じ込めたのではなく、巻き込まれたんです」
日和:「……世界にひとつだけの粉」
日和が、うっとりした。
荻原CEOは、嫌な予感がした。
日和:「珈琲豆の香り、説明書の理性、料金表の欲望……。それらがひとつになった、朝の残響ですわ」
小波:「それよ!」
荻原CEO:「また拾った」
小波:「朝の残響。いいわね。副題に使うわ」
荻原CEO:「副題をつける段階に行かないでください」
日和:「粉になった料金表は、もう金額を示すものではありません。むしろ、価値という概念から自由になった紙……」
小波:「自由になった価値。いい」
荻原CEO:「料金表が粉になって自由になったのは、たぶん僕のせいではないです」
理橋が、粉の袋を横からのぞき込んだ。
目が真剣だった。
理橋:「成分の混在比率を測定すれば、希少性を定義できます」
荻原CEO:「理橋さんまで乗らないでください」
理橋:「珈琲由来粒子、紙由来繊維、インク由来成分。そこに小波さんの料金設計情報が含まれています」
荻原CEO:「料金設計情報は物質として含まれません」
理橋:「概念残留値として扱います」
荻原CEO:「概念残留値って何ですか」
小波:「採用」
荻原CEO:「採用しない」
理橋は、真顔でメモを取り始めた。
理橋:「この粉には、事故由来の再現困難性があります。再現困難性が高いほど、希少性係数は上昇します」
荻原CEO:「希少性係数を朝ごはんに持ち込まないでください」
小波:「希少性係数。これも使えるわ」
日和:「事故でしか生まれない価値……。なんて儚いのでしょう」
荻原CEO:「みんなで事故を美化しないで」
そこへ、天然寺が静かに手を合わせた。
石臼の方に向かって、なぜか深くうなずいている。
天然寺:「これは、大地が選別した粉です」
荻原CEO:「石臼が巻き込んだだけです」
天然寺:「いいえ。珈琲豆は大地から生まれ、紙は木から生まれました。つまり、この粉は森と畑と人間の欲望が再びひとつになった姿です」
小波:「人間の欲望。そこ大事」
荻原CEO:「拾う場所が違う」
天然寺:「さらに、石臼を通ったことで、大地の圧が加わっています」
理橋:「圧力履歴として記録できます」
日和:「圧を受けてなお、粉として残る……。朝の小さな化石ですわ」
小波:「朝の小さな化石。限定パッケージに入れるわ」
荻原CEO:「粉に肩書きが増えすぎです」
占部が、ゆっくり目を閉じた。
スタジオ・キッチンの空気が、少しだけ静かになる。
占部:「……聞こえます、聞こえます……」
荻原CEO:「今度は誰が何を言っているんですか」
占部:「粉が、言っています……」
小波:「来たわね。本人の声」
荻原CEO:「粉に本人性を持たせないでください」
占部は、粉の袋に耳を近づけた。
占部:「……『そこまで高額にしないでほしい』と……」
荻原CEO:「粉が一番まともだ」
小波:「ダメよ。自分の価値に気づいていない素材ほど、伸びしろがあるの」
荻原CEO:「粉に自己啓発を始めないでください」
占部:「さらに、説明書の繊維が言っています……。『第3章だけは読んでほしかった』と……」
理橋:「第3章は重要でした」
荻原CEO:「じゃあ粉にしないでください」
占部:「料金表の破片は、こう言っています……。『私の単価設定は、まだ終わっていない』と……」
小波の目が、鋭く光った。
小波:「そうよ。終わっていない。何も終わっていないわ」
荻原CEO:「終わっています。朝ごはんが始まっています」
小波は、テーブルの上に紙袋を置いた。
そこから、なぜかプレゼンが始まった。
小波:「考えてみて。普通の珈琲豆は、飲まれて終わる。普通の説明書は、読まれて終わる。普通の料金表は、見積もられて終わる」
荻原CEO:「普通に終わらせてあげてください」
小波:「でも、この粉は違う。飲めない。読めない。見積もれない」
荻原CEO:「だから片付けるんです」
小波:「違う。だからこそ、意味が残るのよ」
日和が、そっと胸に手を当てた。
日和:「使えないからこそ、想像だけが残る……」
理橋:「実用性が消失した分、解釈余地が増加しています」
天然寺:「用途から解放された粉ですね」
占部:「粉が、『ただのんびりしたい』と言っています……」
荻原CEO:「粉の希望を尊重しましょう」
小波は、まったく止まらなかった。
小波:「第一弾は、会員制にするわ」
荻原CEO:「何の会員ですか」
小波:「朝の失敗を価値に変える、選ばれた人だけのクラブ」
荻原CEO:「入りたくないです」
小波:「名称は、『粉の会』」
沈黙が落ちた。
荻原CEOが、静かに小波を見た。
荻原CEO:「名前だけ急に地味ですね」
日和:「いえ……その素朴さ、逆に深いですわ」
理橋:「短く、記憶定着率は高いです」
天然寺:「土の会に近い響きがあります」
占部:「粉が、『もっと普通でいい』と言っています……」
小波:「わかったわ。海外展開用には、『The Powder Society』」
荻原CEO:「急にかっこよくなった」
小波:「限定小瓶に入れて、シリアルナンバーを振る。001番はもちろん保存用。002番から販売」
荻原CEO:「売らないでください」
小波:「初回価格は……」
小波は、電卓を叩いた。
カタカタカタカタ。
しかし、途中で手が止まる。
小波:「……待って」
荻原CEO:「ようやく止まりましたか」
小波:「粉が少ない」
荻原CEO:「それでいいんです」
小波:「販売数が限られる」
荻原CEO:「さらにいいんです」
小波:「希少性が高い」
荻原CEO:「あ、ダメな方向に戻った」
小波は、ゆっくり立ち上がった。
小波:「これは大量販売ではないわ。超限定。完全予約制。紹介制。購入希望者は、朝の失敗に対する理解度を作文で提出」
荻原CEO:「粉を買うのに作文が必要なんですか」
理橋:「審査基準を数値化できます」
天然寺:「作文用紙には再生紙を使いましょう」
日和:「粉を求めて言葉を書く……。それは、価値への巡礼ですわ」
占部:「作文用紙が、『巻き込まれたくない』と言っています……」
荻原CEO:「紙側の意見が毎回まともですね」
小波の妄想は、さらに遠くへ行った。
小波:「小瓶は木箱入り。ラベルには、朝のスタジオ・キッチンの空気感を入れる。開封した瞬間、珈琲の記憶と料金表の未練がふわっと香るの」
荻原CEO:「香ったら困ります」
理橋:「香気成分としては、珈琲由来の微粒子が主成分です」
天然寺:「そこに、石臼の沈黙が重なります」
日和:「沈黙の香り……」
占部:「石臼が、『私はもう庭で休みたい』と言っています……」
荻原CEO:「石臼も疲れています」
小波は、フレンチトーストの皿に目を向けた。
そこには、まだ温かい湯気が立っている。
バターの香り。
はちみつの艶。
珈琲の穏やかな香り。
小波の目が、少しだけ揺れた。
小波:「……でも、問題があるわ」
荻原CEO:「たくさんありますけど、どれですか」
小波:「この粉、売るには少なすぎる」
荻原CEO:「はい」
小波:「増やすには、また石臼を回す必要がある」
荻原CEO:「回しません」
小波:「しかも、再現しようとしたら、偶然性が失われる」
理橋:「再現可能になった時点で、再現困難性は低下します」
日和:「二度と生まれないから、美しいのですわ」
天然寺:「一度きりの朝ですね」
占部:「粉が、『もう増えたくない』と言っています……」
荻原CEO:「全員、少しずつ正気に戻ってきましたね」
小波は、しばらく粉を見つめていた。
それから、フレンチトーストを見た。
粉。
フレンチトースト。
粉。
フレンチトースト。
小波は、ゆっくり座った。
小波:「……まあ、今日は保留ね」
荻原CEO:「保留なんですね」
小波:「価値はある。でも、今は市場に出すタイミングじゃない」
荻原CEO:「いいえ。食べるタイミングです」
荻原CEOは、フレンチトーストの皿を小波の前にそっと寄せた。
表面は黄金色。
端は少しだけ香ばしい。
はちみつが、ゆっくり染み込んでいる。
それから、荻原CEOは何でもないことのように言った。
荻原CEO:「小波さんの分は、少し多めにしておきました」
小波の手が、ぴたりと止まった。
小波:「……え?」
荻原CEO:「朝からずっと電卓を叩いていましたから。頭を使ったでしょう」
小波:「……そんなに、いいの?」
いつもなら、すぐに値段をつける。
すぐに市場を見つける。
すぐに世界展開まで考える。
けれど、その時の小波は、ただ皿の上を見ていた。
少し多めに盛られたフレンチトーストを、まるで予想外の配当でも受け取ったような顔で見つめている。
荻原CEO:「はい。今日は市場に出さずに、ここで食べてください」
小波:「……一口だけよ」
荻原CEO:「たぶん、一口では終わらないと思います」
小波は、フォークを持った。
フレンチトーストを小さく切り、口に運ぶ。
少しだけ目を閉じる。
バターの香り。
卵のやさしさ。
はちみつの甘さ。
珈琲の余韻。
小波は、しばらく何も言わなかった。
日和:「沈黙……。これは、利益計算を超えた余白ですわ……」
理橋:「表情筋の緩和を確認しました」
天然寺:「心が、自然に戻っていますね」
占部:「……聞こえます、聞こえます……。スタジオ・キッチンの空気が、『今のは、値段をつけない方がいい』と言っています……」
荻原CEO:「空気が一番わかっていますね」
小波は、もう一口食べた。
そして、ぽつりと言った。
小波:「……売るより、今食べた方が価値が高い時もあるわね」
荻原CEOは、少しだけ笑った。
荻原CEO:「それは、かなり大事な価値判断です」
小波:「でも、この“少し多め”は覚えておくわ」
荻原CEO:「値段をつけない方向でお願いします」
小波は、フォークを持ったまま、少しだけ視線をそらした。
小波:「……これは、非売品よ」
荻原CEOは、少し意外そうに小波を見た。
小波は、照れ隠しのようにフレンチトーストをもう一口切り分けた。
小波:「たまにはね」
小波は、粉の入った小さな紙袋をそっと棚に置いた。
ラベルには、なぜかこう書かれていた。
『料金表が粉になった朝』
荻原CEOは、それを見て小さく息をついた。
売り物にはならなかった。
けれど、小波にとっては、たぶん何かを見つけた朝だった。
そして荻原家にとっては、やっぱりいつもの朝だった。
エピローグ
本編では、飲めない粉として片付けられたもの。
けれど小波の目には、そこに別の価値が見えていた。
売れるかどうかは、まだ分からない。
そもそも、売るべきものだったのかも分からない。
けれど、粉になった料金表を見つめながら、小波は確かに笑っていた。
失敗も、余りものも、変な出来事も。
見方を変えれば、何かの種になるのかもしれない。
ただし、今日のところは。
小波も、荻原CEOも、住人たちも。
あたたかいフレンチトーストを食べる方を選んだ。
荻原家の価値判断は、今日もだいたい食卓の上で決まる。
